「感覚」と「言葉」

「毎日、ご飯を作るのに困っています。
一緒に暮らしているある一人は、野菜がダメなんです。(芋・豆類以外)」
http://www.hatena.ne.jp/1110429324

上記は好き嫌いの人にご飯を食べてもらいたい人の質問です。いいなぁ真面目に向き合ってて。この人と結婚したいですよ。

偏食、いや「好き嫌い」というのはなかなか興味深いテーマです。
偏食をする人間にとって、理論ではなく感覚なのだから、「栄養が偏る」などの理詰めで偏食家の悪癖を直すことは難しいでしょう。直るならそれはきっと感覚から発生した嫌悪ではない。

感覚は湧き上がり、言葉は思考から発生する。二つは交わらない。
感情を饒舌に語る人の頭の中を覗いて見たいです。
例えばボクにとっては音楽の評価は「すげーイイ」「あんまり」「駄目」以外ない。もちろん、人に解説するときはそれなりに言葉を練ることもありますが、感覚を言葉に置き換える訓練をしたことのない人たちの大半には、それは非常に難しい。魂が震えるような出来事を、雄弁に語ることが出来るのは逆に不自然である気さえする。それが出来る人は訓練してるかとても頭脳明晰であるか、本当はキてないか。ついでに言うとここでの頭脳明晰はもともののスペックがいい。

右脳と左脳の連結部を事故で切断された人は目視したものを認識できるけど、認識した対象の「名前」を言えないそうです。この話を聞いて事故に遭った人を気の毒に思いますが、「感情」を的確に「言葉」にできない僕自身も十分にお気の毒さまです。
例えば頭脳が進化過程にあるとして数世代後の種族では両者は統合されているとする。そんな宇宙人みたいなヤツラから僕らを見ると「感情と頭脳が分断されている未発達なサル」なわけで。
先ほどの頭脳明晰な人たちは、右脳・左脳間の帯域がギガビットイーサ人間だとすると僕は10baseTくらいだという自負がありますね。
この「思考・感情」を必死になって考えることはサルが自分のスペックでは追いつかないことは無理に考える感があって非常にいいです。ってか哲学や宗教やら、自分の頭で処理しきれないもの考えている様は、ドンキホーテ的にいつも無様で最高ですよ。

でも、思考ではなく僕の「感情」がこの「頭脳・感情」の分裂をミラクルだと感じるのです。
「どれだけ言葉を駆使しようが、俺らは動物だぜ」と思い出させてくれるのです。

それはともかく、「好き・嫌い」って言葉だけでなんかドキドキするから不思議ですね。